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正倉以外の施設跡

     第4次調査では、幡羅遺跡が成立後間もない頃の長大な側柱建物跡(8×2間)が検出されています。各地の事例で、郡役所が定型的なものに整備されるのは、大宝律令が制定される前後のものがほとんどであることが明らかであり、幡羅遺跡の正倉もその頃(7世紀末頃)に整備されます。
     第4次調査で検出された長大な側柱建物跡はそれ以前のもので、整備される前の郡役所における中心的な建物の一つであったと考えられます。

 

     また、その場所は後に、間に土塁を伴う可能性のある2重溝で区画されます。区画された施設の性格については、現在のところ明らかにはなっていませんが、区画が厳重であることから、何らかの重要な施設であったことは間違いないと思われます。

     その他に、道路跡の可能性がある遺構や鍛冶工房跡などが確認されています。鍛冶工房跡は複数確認されており、いずれも7世紀末頃のものと考えられます。この時期は、郡役所が定型的なものに整備される時期に当たり、建設ラッシュに伴い必要となった釘などの資材を供給するための施設であったと思われます。


    (上)鍛冶炉跡

(上)長大な側柱建物跡

     また、幡羅遺跡では未発見ですが、郡役所には、政務などを行う郡庁、国司などが巡行の際に宿泊する館(たち)、食料供給などを行う厨家(くりや)などがあったと考えられます。
     深谷市では、今後も引き続き調査を行い、これらの諸施設の発見と共に、遺跡の全体像を明らかにしていく方針です。

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